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松井みどり氏より/「蜷川実花:Self-image」展によせて

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蜷川実花:Self-image」展には、連日たくさんのお客様が足を運んでくださっています。いわゆる「蜷川カラー」とは趣の異なる作品が並ぶ展示に戸惑う人もいれば、制作の内発性が強く感じられる作品群に、改めて写真家としての蜷川の力量を評価する人も多くいらっしゃいます。
展覧会が始まって丸2ヶ月。これまでたくさんの感想や意見をいただきましたが、その中で、美術評論家の松井みどり氏がEメールで送ってくださった感想には、松井氏ならではの豊かな感受性と冷静な視線で蜷川作品の分析がなされていました。その内容は以下の通り。本ブログへの掲載を快く許可してくださった松井みどり氏に心から感謝申し上げます。

(以下、松井氏のEメールより抜粋)。

蜷川さんの展覧会を拝見して、蜷川さんの写真における視覚的実験を通した、現代社会の喧噪の中の大衆の孤独や疎外、人間以外の生物の搾取と同時に人間自身の物象化に対する痛切な批判を強く感じました。(視覚的実験と社会への関心が拮抗した結果、そのような世界観が受け取られた、という方が自然かもしれません)。
今回、強く印象に残ったのは、2階の中央の部屋、たぶん展示の第4室にあたる部屋の写真です。そこでは、桜と思われる木々が、白黒のコントラストを極力曖昧にした色調や、光の階層の、強いにじみやぼやけを通して撮られていました。その、点描というにはあまりにもゆるく、事物の輪郭が原子の粒のうちに溶け出しているような映像は、不安と同時に、事物の同一性や役割を固定している常識を超えて目の前の事象をただ見る自由を、観客である私に与えてくれました。少し離れて立つと、なんとなく風景らしく見える画像が、近くに寄ると点という現象そのものに分裂し、意味が溶解していくのが感じられました。その感じは、先ず、視覚体験として、日常からの解放を与えてくれる興味深いものでした。と同時に、階下の第2室の展示で、群衆の姿が、その無名性と集合性を強調するかのような、図形的統一性をもって捉えられた幾つもの写真のインスタレーションを見た後でしたので、余計に、個の輪郭を失うことの苦しみと、その縛りからの解放の刺激を強く感じたのです。

美術館をはいってすぐの部屋の映像インスタレーションは、展覧会全体に通底している、視覚体験を通して現代社会への思いを伝える蜷川さんの手法を総括していると思いました。水槽の中の金魚と渋谷の交差点(?あるいはそのような、多くの人が絶え間なく通過する場所)を行き交う人々の映像が対置され、或いは重ね合わされて、人が金魚を見ているのか、金魚に見られているのか、水槽に囚われているのは、人なのか、魚なのか、その区別が故意に曖昧にされていました。小さな個性はすぐに集団の流れのなかに飲み込まれ、集団としての運動や圧力を通してのみ人はその存在感を発揮できるという状況が、グロテスクさと美しさ、無表情性とはかなさを伴った映像表現の部分と全体の流れを通して伝えられました。そこから感じられるのは、無常観といいますか、今までの蜷川さんの写真の、個の力強さや唯一無二の存在感を愛でる暖かく人間的な心とはまた違う、現代社会の事象を通して万物の生死に関わる法則を捉えようとする冷静な視線でした。
私自身は、このように、今回の展覧会を、視覚現象とイメージの連想喚起力を、点描や集団の運動の揺らめきやざわつきを通して連関させ、そこからさらに、現代社会におけるすべての生物の物象化と、人間と動物という階層を超えて繋がる現象的哲学的な法則性を探るものとして捉えました。